映画「御手洗薫の愛と死」公式サイト

30年ほど前にフランスの文壇でちょっとしたスキャンダルが起きた。ゴンクール賞という日本の芥川賞の様な賞を二回獲得した作家がいたのだ。彼は若い頃にその賞を取り、その後フランス文学界の大家となった。本来一度しか受賞の資格はないのだが、彼は別のペンネームを使ってもう一度その賞を取り、授賞式には若い影武者を仕立てた。後にそれは公になり受賞は取り消された。小さな囲み記事であったが、両沢監督の頭の隅に、妙に記憶に残った。「自分が作家的な立場になった時、そのベテラン作家は何故そんな事をしたのか、そして影武者の立場だった若い男は何を思ったのか、そんな事が気になりだしたんです。そしてベテラン作家を女性に置き換えたら、知的でユニークなラブ・ストーリーになるのではないかと思いました……」これが映画『御手洗薫の愛と死』の出発点であった。
「こういう人は、作品の執筆中こそ晴れ舞台だから、書斎ではドレスアップした格好をしている方がいい」という共通認識のもとに『御手洗薫』の衣装選びは始まった。「私は普段地味な役の方が多くて……」と語る吉行和子さんだが、普段着はお洒落でしかも旅行好き。世界のあちこちで手に入れた私物の衣装やアクセサリーを沢山提供していただいた。また、冒頭のシーンで着ている衣装は、もともとは和服だったものをパーティードレスに仕立て直したものだ。このようにして『御手洗薫』の独自なファンションは生み出された。
ロックバンド「SOPHIA」のヴォーカリストでもある松岡充さんは、そのファッションセンスの良さでも知られている。野心に溢れたしかし裕福ではない若者である登場シーンから、次第に社会に認められるがその成功が砂上の楼閣である事を知る後半まで、『神崎龍平』という役の変化を映像化するのに、彼のファッションセンスは遺憾なく発揮された。また、ラストで大きく成長した姿を見せる場面で着ている皮のジャケットは、両沢監督の私服である。衣装合わせの時にたまたま着ていたところ、「長く着古した感じがいい(笑)」と松岡さんも他のスタッフも同意して採用になった。
プロデューサーの大賀文子さんが両沢監督の脚本を最初に読んだのは5年近く前になる。今まで多くの作品を通じて仕事を持つ女性にメッセージを送ってきた彼女は、この作品がその集大成になると直感し、すぐに映像化に向けて動き出した。そして以前から交流のある吉行和子さんに主演を打診した。吉行さんは出演を快諾しただけでなく、プロデューサー的な立場となって大賀さんを助け、本作品に取り組んでくれた。その後、各人の意見を取り入れて脚本は何度か改訂され、主役二人の関係に絞り込んだ、より密度の高いものとなった。大賀プロデューサーは一緒に仕事をしたスタッフや俳優たちと長い付き合いを大事にしている。今回も以前一緒に仕事をした人たちが多く集まり、中にはノーギャラで参加する人もいた。撮影現場は厳しいながらも和気あいあいとした雰囲気で進み、俳優たちも適度な緊張を持ちつつ素晴らしい演技を披露した。そんなスタッフやキャストに支えられて、予算以上のリッチな映像が生み出されていった。
『御手洗薫』と『神崎龍平』が出会う場面は脚本上20頁近くある長い芝居で、しかも二人しか出ていない。二人の社会的立場、それまでの人生、相手に対する複雑な思い、本音と駆け引き、そして感情の爆発……このシーンには様々な要素が詰め込まれている。この様な複雑な芝居を時間のない撮影現場ですべて作り上げるのは不可能である。そのため今回は、まるで舞台の準備のように約一ヶ月に渡る稽古期間を設けた。そのお陰で、二人の俳優はどのセリフから撮影に入っても決してぶれることのない役作りをする事が出来た。また撮影スケジュールもほぼ脚本の流れ通りに組まれたので、「役の感情が変化していくのを自然に演じることが出来た」と松岡さんは言っている。
御手洗薫の家となったのは東京都内にあるロケセット。これまでにも様々な撮影に使われている和洋折衷の家であるが、今回美術スタッフは大量の書籍と、大きな執筆用デスク、御手洗薫が以前に出版した数々の本、彼女の若い頃の写真、そして趣味で集めたらしき沢山のロウソクなどを飾りこみ、見事な作家の部屋を作り変えた。その出来映えは、試写を見た関係者が「あれは一体何処で撮影したの? セットを建てたの?」とスタッフに聞いてくる程である。
御手洗薫の部屋にある暖炉の上には、彼女の若き日の写真が綺麗な額縁に入れられて飾ってある。それらは全て吉行和子さんご本人から提供された物である。劇中でクローズアップになるその中の一枚は、何故かスズランの花を手にしている。「これはね……スズラン娘に選ばれた時の写真なの」というのがご本人の弁。今でいうキャンペンガールである。吉行さんはそれらの写真を見ながら、「あなた……心配しなくても将来はこういう素敵な役に巡り会うことが出来るわよ」と話しかけたそうである。
神崎龍平の部屋は御手洗薫の部屋とは対照的である。そこにはエレキギターやシンセドラムのセットなどがあり、まるでミュージシャンの部屋の様だ。これは最近の若い作家が執筆の合間にエレキギターを弾いて気分転換を図っているのを、監督がテレビで見たのがヒントとなっている。自身もミュージシャンである松岡さんはセットを一目見ると、「僕の若い頃の部屋とそっくり!」とあちこちを見て歩く。本棚に飾ってある小物から、そこに収められているマンガ本まで自分の趣味にピッタリだったので、「美術さん凄いね」と驚いていた。
少数精鋭のスタッフ編成だったので、現場にはスチルカメラマンがいなかった。代わりに撮影をしたのは監督自身。「はいカット、オーケー」と言った後、「それじゃスチル下さい」と首から提げた一眼レフを手に自らシャッターを押した。と言うわけでポスターやこのパンフレットに使われている写真は、ほとんどが監督自ら撮影した写真である。